紀元前1世紀の古代ローマ。
初代皇帝アウグストゥスの娘ユリアと、皇帝の右腕にして親友アグリッパの夫婦の話。
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ユリアはいつだって、誰かの一番になりたかった。
小さな頃の彼女は、伯母であるオクタヴィアの家庭で育てられた。
そこにはたくさんの子供たちがいた。
オクタヴィアの長男のマルケルスとマルケラ姉妹。
やはりオクタヴィアの子でマルケルスとは父親違いのアントニア姉妹。
さらには政敵であるアントニウスとクレオパトラの孤児たちまで引き取って、オクタヴィアの家はたいそうにぎやかな様子である。
だからこそ、ユリアは寂しかった。
この騒々しい場所に彼女の母はいない。父もいない。兄弟はもとより生まれていない。
伯母オクタヴィアは優しい人だったが、公平さを重んじる性格でもあった。自分の子供たちを含めて、誰か一人をひいきするような真似は決してしない。ましてや姪であるユリアに、特別に目をかけてくれることはなかった。
小さいユリアは、やはり小さかったティベリウスとこんな話をしたことがある。
「ねえ、ティベリウス兄様。兄様はこの家にいて、寂しいと感じることはないの? 兄様はクラウディウス家の人だもの。この家の誰とも血が繋がっていないよね」
ユリアよりも三歳年上のティベリウスは、つまらなさそうに答えた。
「別に。俺には弟のドルススがいる。あいつの面倒を見てやらないといけないから、寂しがる暇なんてないさ」
「いいな、兄弟。私も弟か妹が欲しかった。私だけの、弟や妹。私は一人っ子だから、いつも寂しいんだ」
「なんだよ、それ。もっとしっかりしろよ。お前は偉大なるアウグストゥスの一人娘なんだから」
「……うん」
ティベリウスの苛立ち混じりの言葉は、彼自身さえ無自覚の刃となってユリアを傷つける。
ユリアは薄っすらと涙を浮かべて、慌てて目元をこすった。
ティベリウスは突き放したつもりはない。ただ、弟以外の子にどうすれば優しくしてあげられるのか分からないのだ。
だから泣きそうなユリアに何と言えばいいのか分からず、考えた末に型通りの言葉を口にした。
「ユリア、お前は女だから、大人になれば結婚して子を産む。そうすれば寂しさなんて消えるだろ。夫に大事にしてもらって、子宝に恵まれればいいんだから」
「うん……そうだね」
型通りの言葉はユリアの心に届かずに、ティベリウスは気まずい思いをして、彼らはそのまま疎遠になっていった。
ユリアは十四歳になった日、最初の結婚の時が訪れた。
相手は父方の従兄、十七歳のマルケルス。共に伯母の家で育った幼馴染でもあった。
小さな頃から一緒の相手で従兄妹だから、互いに情はある。ただ、情以上の気持ちはなかった。
ユリアはこれでいいと思った。市民の第一人者であるアウグストゥスのたった一人の娘なのだから、結婚は政略結婚以外にありえない。
そして父は血筋による正統な跡継ぎを求めている。娘と甥の結婚は甥の立場を強め、いずれ生まれてくる息子たちに後継者としてのお墨付きを与えるだろう。
顔も知らない相手に嫁ぐよりは、よく知った従兄と結ばれる結婚の方がいいに決まっている。
ユリアは自分にそう言い聞かせた。
……けれど、十四歳の彼女にとって初夜は負担だった。
やっと初潮を迎えたばかりの体は未熟で、男性を受け入れるのにひどい痛みを伴う。
十七歳の夫は幼い妻を労る余裕がなく、夫婦の営みはユリアにとって恐怖以外の何物でもなくなってしまった。
それでも後継ぎは望まれる。この時代、十四歳は十分に出産年齢を満たすと考えられていた。
けれども結局子は出来ないまま、夫マルケルスは病で死んでしまった。
結婚からわずか二年後のことだった。
「また、一人になちゃった」
夫の喪に服している間、ユリアはそんなことを考えていた。
あまり相性は良くなかったけれど、それでも幼馴染であり従兄でもある夫だ。
失った心の空洞は大きくて、ユリアはぼんやりと孤独の縁に立っている。
父アウグストゥスの失望も大きかった。
息子がいない彼は、甥に後継者としての期待をかけていたのだ。
マルケルスの葬儀が済んだ後、ユリアに投げかけられた言葉は労りとは程遠いものだった。
「役立たずめ。もっと早く男子をもうけておけばいいものを」
「……申し訳ありません。お父さま」
ユリアは心を押し殺す。寂しいと泣いている幼子の頃の気持ちにふたをして。
「ユリアよ、泣いているのか? 泣くのは葬儀の時だけで十分だろう。我が血筋に弱者はいらぬ」
「……はい。お父さま」
ユリアは歯を食いしばって涙をこらえた。
本当は父に優しくしてほしかった。たった一人の娘なのだから、大事にしてほしかった。
寄る辺ない心の支えになってほしかった。
でもそれは、求めるだけ無駄なのだ。そう思い知った。
父はローマという国と、カエサルから受け継いだ理想だけを見ている。
その視界に心の弱い娘の入る余地はなく、子を産まない娘の入る余地もない。
父アウグストゥスは妻リウィアと仲睦まじく暮らしている。
子が出来ないのに、リウィアを離縁する素振りもない。
後継者、血を継ぐものの負担は全てユリアに押し付けている。
そして皆、それが当然だと思っている。
さらに二年後。
ユリアに再婚の話が持ち上がった。
いつか来るだろうとユリアも覚悟していた。夜の営みはトラウマになっていたが、いつまでも避けてはいられない。
アウグストゥスの血統は必ず必要になるのだから。
ところが、夫となる相手の名前を聞いてユリアは目を丸くした。
「えっ……マルクスおじさまですか?」
マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ。父の右腕にして親友の軍人である。
十八歳で挙兵したアウグストゥス――当時のオクタヴィアヌス――に忠実に付き従い、数え切れないほどの戦いをくぐり抜けて来た人。
年齢は父と同年代なので、ユリアよりも二十歳以上年上になる。
朗らかな人柄で人望が篤い。昔からよく知っている人で、ユリアも父のように慕っていた。
「でも、マルクスおじさまはもう結婚されていますよね?」
ユリアが問うと、父は微笑んだ。ユリアが嫌いな表情だった。あの笑みは万人に向けられたもので、決して娘を見ていないと知っていたから。
「離婚してもらったよ。ローマのためと前妻も納得してくれて、円満に別れた。何も問題はない」
「そう、ですか……」
ユリアは心の中で自嘲する。今度の夫も、きっとユリアを見てくれないだろう。
アグリッパにとってユリアはせいぜい娘のようなもので、妻として愛した人は他にいるのだから。
「アグリッパは頑健な人間だ。四十は過ぎたが、子作りに問題はないだろう。ユリアよ、しっかりと励むように」
「はい」
返事をしながら、ユリアは奇妙なおかしさが込み上げてくるのを感じる。
父がアグリッパを深く信頼しているのは知っていた。彼なくしては勝てなかった戦さも多いと聞く。
そんな心から信頼して頼りにしている人を、種馬扱い?
引き受けて離婚までしたアグリッパもどうかしている。
――断れば良かったのに。
苦い思いがユリアの胸に広がった。
――そうすれば、奥さんと別れずに済んだのに。私なんかのために。きっと嫌われた。
――私はずっと、誰からも愛されず、寂しい思いを抱えて生きていくんだ……。